横浜パン3
横浜開港当時は外国人だけのものであったベイカリーは、明治期に入ると外国領事館、商館や外国人の私邸などで下働きをしていた日本人の中に、製パン技術を身につけて独立するものなどがあって、その数を増していきました。
しかしこれらはいずれも小規模で、繁盛しませんでした。
この中にあって、居留地内製パンの中心であった横浜ベイカリーの創立者、クラークが帰国することになり、その権利を日本の打木彦太郎に譲りました。
横浜ベイカリーウチキ商店はクラーク時代の大量の顧客を引継ぐとともに、優れた製パン技術が高く評価されて、全国にその名を知られるようになりました。